「この世界の片隅に」についてもうだらだらと垂れ流すだけの記事

感想第三弾。
まだ書くか!って感じですが、3回の鑑賞を経て少し時間がたち、いろんなインタビュー記事や考察感想を読み、いろいろと思うところがあったので再び筆を執りました。
今回は思いつくままにいつも以上に雑多な感じでお届けします。

批判の声少なすぎないか問題

どんどんと上映館数も拡大して勢いが留まるところを知りませんが、何よりすごいのが名だたる映画ファン・批評家からも絶賛の嵐ということ。
批判らしい批判の声があまりに少ない。
これ、すでに観た人たちならよかったよかったのお祭り状態でいいんですけど、観ていない人からしたらハードルがどんどん上がって映画館に行きづらくなるんじゃないかなーなんていらぬ心配をしています。
かといって自分もこんな記事書くくらいなんで褒め称えることしかできないんですけど。
この「批判のしにくさ」っていうのが何に起因しているのかというと、ひとつはあまりの隙のなさなのかなーと。
片渕監督の徹底されたリアリティを求める姿勢は各種記事でも触れられていますが、これはもちろんパンフのインタビューにもあったように「すずさんを実在させる」ための準備ということなわけですが、すごく、ものすごく嫌な言い方をしてしまうと、ツッコミどころを必死になくしているわけです。
物語というものは、そしてアニメーションというものは、まず前提としてなんですよ。
現実には決して存在しない、空想の産物、フィクションです。
それゆえに「こんな景色は当時ありえない」「あんな服装はありえない」みたいな見る人が見ればわかってしまうようなツッコミどころが生まれてしまうと、途端にリアリティって減衰してしまいます。
それが戦時中の、しかも広島の話となると、いろんな人のアイデンティティーや思想に直に触れかねないわけで。
中途半端なリアリティーのものはそれはもう批判が集中してもやむを得ないわけです。
そういう意味ではこの作品のやってることって、創作物としてはめちゃくちゃリスキーなんですよね。
だからその隙をとにかくなくしていくのが、物語として成り立たせるためにはもう必須。
片渕監督はそう考えたのでしょう。
それがパンフレットのインタビューにも書いてあった「すずさんを存在させる」ということなんだと。
その情熱の結果、作画面でも資料面でも批判のしようがない作品に仕上がったのだと思います。
この辺は実写だとかえって難しいのではないでしょうか。
アニメだったからこそ、もともとが嘘であるからこそ、作り込み次第で見る側のリアリティはリアルを超えていくという好例かと。
実写の場合はもう、役者や風景が今のものである時点ですでに「リアルなもの」にはなりえないですからね。
この点に関しては、作品の方向性は全く違いますがガルパンのヒットにも通じるところがあるかもしれないですね。
圧倒的な戦車戦闘の演出がすごすぎて、あれ見た後だとシン・ゴジラに出てきた最新鋭の10式戦車すら役者としてはちょっと物足りなくなったくらいですから。
リアルはありのままである分、ときに「リアリティ」に負けてしまうのだなあと。

声優の演技について

正直言って、のんの演技は声優としては決してうまくないんですよ。
そりゃあ今回が初だし、慣れない広島弁だし、と言い訳のしようはいくらでもあるかもしれませんが、少なくとも彼女がこれから先声優として大成する未来は見えませんでした。
特に最初の子供の頃のシーンとかは結構不安になったし。
無論、これはあくまでこの作品の演技でだけの評価なので、今後の成長がどうなるかは全く読めません。
それでもなお、すずさんの声はもうのん以外あり得ないというくらい神がかり的にはまっていたものまた事実なんですね。
すずさんとのんの境遇を重ねて語る人たちが多いですが、自分はあまちゃんも観ていないし芸能界のことも詳しくないので、のんが事務所関係でごたごたしている状況について何も思いをはせたことはありません。
それでもなお、これだけ彼女の演技を素晴らしいと思ってしまうのは、もう純粋に彼女の声質と、素朴すぎる演技が作品の世界観に完全にマッチしたからなのかなと思っています。
逆に数々のアニメ作品で主役級の活躍をしている小野大輔の水原哲の演技は、この作品の中では少し浮ついて聞こえました。
なんというか、かっこよすぎるというか、現代的すぎるというか。
本当に少し気になった程度のレベルではあるんですが、このあたりは完全に合う合わないの話なんじゃないかなーと思います。
その点周作さん(CV:細谷佳正)と径子さん(CV:尾身美詞)の北條姉弟の演技には本当に120点をあげたいくらい、バッチリはまってました。
っていうか演技以外にも北條姉弟のキャラクターが大好きすぎて語りたいことが多すぎるんですよ!
この記事では書き切れないし、まとまらないからやめときますけど!
・・・ってもしかしたらこの辺の演技の対比すらも、片渕監督の演出の一環なんですかね。
つまり、水原哲ってこの作品の中ではある種異物感を伴って登場する色男なわけで、いけすかない存在感あってこそな部分があるわけじゃないですか。
もし本当にそうだとしたら恐ろしすぎるな片渕須直・・・。

音楽について

はい、この記事で一番語りたかったところ。
今回の映画に関して、どうしても泣かされてしまうポイントの一つが間違いなく劇伴じゃないですか。
特に歌。あれは本当によくない(涙腺に)
一番最初の「悲しくてやりきれない」でもう本当に悲しくてやりきれなくなりますよね。
まず今回の劇伴の曲は全体的に打楽器やビート感が少ないものが多いです。
これは自分がバンドでやっているから感覚的にわかっていることなんだけど、リズムやビートって強ければ強いほど聴く側は頭を使わなくなるんですよ。
理性という意味だけでなく感情的でもなくなる。
リズムって快楽を刺激する麻薬的な効果が強いので、感情的なものすらも奪い去ってしまうんですよね。
極端な例でいえばクラブで流れるようなEDMとかアフロビートってまさにそうでしょう?
みんなハッピーになっちゃう。
今回の劇伴はそのあたりをよーくわかっていて、打楽器以外の楽器であっても、細かいリズムを刻むような演奏が実に少ない。
楽しげに打楽器が流れるのは「とんとん とんからり~」でおなじみの隣組と、すずさんがごはん支度するシーンで流れるその名も「ごはんの支度」あとは周作さんとのデートシーンで流れる「デート」とか。
どちらもこの映画内で日々の生活の中でのちょっとした幸せを表現する象徴的なシーンです。
あとは、問題の歌について(問題て)
コトリンゴって、いい意味で感情を込めずに歌っているというか、決して平坦なつまらない歌い方ではなく、それでいて人間的な存在感と柔らかさを感じる声をしているんですよ。
逆に作られる曲というのは、これはもうコード進行的には大変に凝っていて、非常に情緒あるドラマチックなアレンジとメロディが目立ちます。
この曲調と歌い方のアンビバレントな組み合わせが、押しつけがましくない、それでいて聴く側の感情に触れる、寄り添うような優しい歌を生んでいるんだと思います。
だからこそ先述のリズムの意図的な弱さと相まって、歌詞がすーっと入ってきやすい曲になっているじゃないかなと。
この構造って何かに似てません?
まさに「この世界の片隅に」の映画が語られる文脈にそっくりなんですよね。
決してシナリオに思想や主張を載せず、それでいて演出と美術に大変なこだわりを持って作られた映像と、この音楽の組み合わせはまさに運命的なものだったんじゃないかと思います。
ちょっと脱線しますが、個人的にコトリンゴはポスト大貫妙子だと思っていて。
どちらも坂本龍一と絡みがあったり、作詞作曲を自らこなすシンガーソングライターであったり、透明感のあるファルセットが特徴的であったり。
また、大貫妙子はいわずとしれた伝説のバンドSugar Babeからソロへ、片やコトリンゴはソロとしてのキャリアを積み上げたのちに、新生KIRINJIへの加入と、キャリア的には対照的ですが、どちらもバンドを経験しているという点では近い感覚があるとおもっています。
いずれコトリンゴ姉さんもみんなのうたとかやらないかなー。

いやー書き散らかしたな

ほんとまとまらない脳内垂れ流しですみませんがとりあえずこの記事はこんなところで。
とにかく一つだけ言っておきたいのはもう何もかもこの作品のあらゆる点がツボだったということですよ。
だからこそこんなにあれこれ語りたくなるんですわ。
まあもう今回で思いの丈は書き切ったよ多分!
2016年も終わりに近づいてますし、「このマンガがすごい!」の発表もあったところだし。
そろそろちゃんとマンガレビューブログに戻っていこうかな。

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